【本日7月7日御誕生日】崇徳天皇 歌人として、人間として。

2020年7月13日

本日、7月7日崇徳天皇御誕生日です。

 

Emperor Sutoku2.jpg
藤原為信 – The Japanese book “Tenshi-Sekkan Miei (天子摂関御影)", Kunai-chō Shoryō-bu (宮内庁書陵部), 1968, パブリック・ドメイン, リンクによる

崇徳天皇(すとくてんのう、1119年7月7日〈元永2年5月28日〉- 1164年9月14日〈長寛2年8月26日〉)は日本の第75代天皇(在位: 1123年2月25日〈保安4年1月28日〉- 1142年1月5日〈永治元年12月7日〉)。諱は顕仁(あきひと)。

鳥羽天皇の第一皇子。母は中宮・藤原璋子(待賢門院)。譲位後は新院、その後、 平安時代末期の1156年(保元元年)に貴族の内部抗争である保元の乱で後白河天皇に敗れ、讃岐に配流後は讃岐院とも呼ばれた。

Wikipediaより引用

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%87%E5%BE%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87

 

私は昨年秋より、あることがきっかけで崇徳天皇(以下、「崇徳院」と呼びます)に関心を持つようになり、その後彼にまつわる史跡を訪ねたり、彼について調べたりしてきましたが、これまであまりそれらについてアウトプットする機会がありませんでした。

しかし、本日が御誕生日ということで、これを善い機会として、

・私が崇徳院に関心を持ったきっかけ

・これまで訪れた崇徳院に関する史跡

・私なりの崇徳院に対する考え

などを拙いながらも整理し、本投稿にてお伝えしていこうと思います。

 

崇徳院に関心を持ったきっかけ

私が崇徳院に関心を持つようになったのには、つぎの2つのきっかけがありました。

きっかけ①歌人として: 源氏物語「定家本」発見のニュース(2019年10月)

私が崇徳院に関心を持つようになったきっかけのひとつは、昨年秋にニュースとなった「定家本」の発見です。

 源氏物語の現存する最古の写本で、鎌倉時代の歌人・藤原定家による「定家本」のうち「若紫」1帖(じょう)が、東京都内の旧大名家の子孫宅で見つかった。冷泉家時雨亭文庫(京都市上京区)が8日発表した。定家が校訂したとみられる書き込みや、鎌倉期に作られた紙の特徴などから、同文庫が定家本と鑑定した。

(京都新聞 2019年10月8日 https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/29641 より引用)

 

中学高校時代にお世話になっていた国語の先生に、このニュースについてメッセージを送ると、

百人一首でベスト5の歌を決めておいてください」とお返事がありました(決めておいて今度お話ししましょう、という意味で)。

(藤原定家は、小倉百人一首の撰者でもあります)

そこで、あらためてベスト5を決めるべく、国語便覧を開いて百人一首を見返してみたのですが、

七十七番、崇徳院のこの歌がやはり自分にとってベストであると認識するようになりました。

 

「瀬を早(はや)み岩にせかるる滝川(たきがは)の われても末(すゑ)に逢はむとぞ思ふ」

 

「このような素晴らしい歌を詠まれた崇徳院とはどのような人だったのだろうか」

「また他にはどのような歌を詠まれていたのか」と、すぐれた歌人として崇徳院の事が気になってきました。

 

きっかけ②いち人間として : 崇徳天皇御廟が職場の近所だった

私は祇園で仕事をしていた時期があり、職場の近くに崇徳天皇御廟があったため、定期的にお参りをするようになりました。これが崇徳院に興味を持つようになったもう一つのきっかけです。

保元の乱に敗れた崇徳上皇は、讃岐に流され悲嘆の日々を送っていたが、血書をもって都への還幸を願ったが、聞き入れられず、46歳で崩御された。

上皇の寵愛を受けた阿波内侍は上皇の遺髪を請い受け、この地に一塚を築き、亡き上皇の霊をお慰めしたと伝えられている。

この頃、京では異変が相次ぎ、崇徳上皇の祟りと恐れられたため、御影堂や粟田宮を建て慰霊したが、今では廃絶し、この地のみが上皇を偲ぶ御廟となっている。

住所 : 〒605-0074 京都府京都市東山区祇園町南側

京都祇園 八坂神社参道 祇園商店街 ホームページより引用

(https://www.gion.or.jp/around/%E5%B4%87%E5%BE%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%BE%A1%E5%BB%9F)

讃岐に流されることとなり訪れた阿波内侍との別れ、そして遺髪を請い受けた阿波内侍が塚を築いたというエピソードに想いを馳せながらお参りをする中で、怨霊としてではなく、いち人間としての崇徳院に、そして彼の生涯に興味を持つようになりました。

 

これまで訪れた崇徳院に関する史跡

このようにして崇徳院に興味を持つようになった私は、彼に関する史跡を訪ねてみることにしました。これまで私が訪れた場所のいくつかを、京都尼崎讃岐(香川県坂出市)と3つの地域に分けてご紹介していきます。

京都篇

白峯神宮

白峯神宮は飛鳥井家の蹴鞠の守護神・精大明神を祀ることから、近年はサッカーやスポーツの神様として注目されることも多いですが、崇徳院を主祭神とする神宮です。

幕末、孝明天皇は、崇徳院崩御の地である坂出から院の御霊を京都に迎え入れ、慰めることでご加護を賜ろうとしましたが、叶わぬままに崩御。その御遺志を継いだ明治天皇飛鳥井家の邸宅跡地に社殿を建てることによってできた神宮が白峯神宮です。

先に述べた崇徳天皇御廟は白峯神宮が護持されています。

安井金毘羅宮

こちらも主祭神として崇徳院を祀る神社です。

天智天皇の御代(668~671年)、藤原鎌足がこの地に一堂を創建し、藤を植え藤寺と号しました。この藤を好んだ崇徳院はここに堂塔を収蔵し、阿波内侍を住まわせました。

崇徳院は保元の乱(1156年)に敗れて阿波内侍との別れを余儀なくされます。別れから約8年後、崇徳院が讃岐の地で崩御すると、阿波内侍は崇徳院より賜った自筆の御尊影を寺中に祀られました。

時は下り治承元年(1177年)、大円法師がこの御堂に籠ると、崇徳院が姿を現し往時の盛況を示されたと伝えられます。この出来事を聞いた後白河法皇の勅命により、この地に光明院観勝寺が建立され、これが当社の起こりとされています。

やがて崇徳院に加えて、崇徳院が籠られた讃岐の金刀比羅宮より勧請した大物主神と、源頼政公を祀ったことから、「安井の金比羅さん」の名で知られるようになりました。

現在では、さまざまな悪縁を切り良縁を結ぶご利益のある神社として注目されています。

 

尼崎篇

流罪となった崇徳院は讃岐へと向かう途中、尼崎の地を訪れました。

松原神社

松原神社は兵庫県尼崎市浜田町に鎮座する神社です。主祭神は素戔嗚尊で、崇徳天皇を相殿神とし、三輪明神を配祇神とします。

保元の乱に敗れた崇徳院は讃岐へと流されることとなりましたが、その途中、大風雨を避けるために、この浜田の地にて休息されたと伝えられています。

その際、浜田の村民は海の幸・山の幸を差し上げて、崇徳院をもてなしました。

具体的には、このしろ、はまぐり、かき、まてがい、ばい、ゆば、湯豆腐、よめな、しいたけ、ごぼう、かまぼこ、やき米、やき豆、塩おはぎといった食材を差し上げられたそうです。

心をこめた村民の温かいもてなしとご馳走は、戦いに敗れ都を追われることとなり、悲しみに疲れ暮れていたであろう崇徳院を励まし、癒したのではないでしょうか。

松原神社では、3月13日にダンゴボー(ダンゴノボー)と呼ばれる春祭りがあり、当時と同じ上記の食材を献上する神事が行われています。

崇徳院(地名)

崇徳院が訪れたことに由来し、尼崎市にはずばり崇徳院という地名があります。

 

讃岐篇(香川県坂出市)

保元の乱に敗れ讃岐国へと配流された崇徳院は、崩御までの約8年間を、現在の香川県坂出市にてお過ごしになられました。そのため、崇徳院は讃岐院(さぬきいん)とも呼ばれます。

先日、坂出市観光協会主催の「『崇徳上皇の足跡と国宝神谷神社をめぐる』ツアー」に参加させて頂き、崇徳院に関する史跡を参拝してきました。それら史跡について次にご紹介いたします。

(本ツアーは毎月第3日曜開催。今後の開催状況については詳細は下記URLご参照くださいませ)
https://www.sakaide-kankou.net/events/townwalking/sutoku_tour.html

雲井御所後

崇徳院の仮の住まい(御所)の跡地です。

崇徳院が讃岐へ到着した当時、国府に勤める当地の長官であった綾高遠(あやたかのとお)の邸宅がこの地にありました。

到着時に御所がまだ出来ていなかったことから、その綾高遠の邸宅を仮の御所として崇徳院は住まわれたと伝えられています。

この仮の御所で崇徳院が詠まれた歌に、
「ここもまた あらぬ雲井となりにけり 空行く月の影にまかせて」

というものがあります。この歌にちなんで、ここは「雲井御所」と呼ばれるようになったといわれています。

鼓岡神社(つづみがおかじんじゃ)

 

崇徳院を祭神として祀る鼓岡神社は、雲井御所を出られた後、崇徳院が6年余りの生活を営んだ「木の丸殿(このまるでん)」と呼ばれる御殿があった場所です。

御殿というものの、簡素な造りであったようです。

1913年(大正2年)の崇徳上皇750年大祭の際に、この木の丸殿を模した建物が造られ、擬古堂と呼ばれています。

白峯宮

白峰宮(しらみねぐう)は、旧讃岐国、香川県坂出市に鎮座する、主祭神として崇徳院を祀る神社です。

「明ノ宮(あかりのみや)」とも呼ばれており、この呼び名の由来として、次のような不思議なエピソードが伝えられています。

「配流された天皇のご遺体を、一体どうすれば良いのか?!」

崇徳院の崩御を受けて、前代未聞の難問に、讃岐国は大慌てで朝廷に使いを出されたようです。

しかし、讃岐から朝廷まで行って帰ってくるとなると、かなりの日数がかかってしまいます。
しかも、崇徳院が崩御されたのは暑い夏の時でした。

そうなると、気になるのはご遺体です。
もし使いが帰ってくるまで放置すると、腐敗してしまう…

そこで、使いが帰ってくるまでの間、崇徳院のご遺体は、八十場(やそば)の泉にて、
20日間にわたり冷やされ続けたのでした。

その崇徳院の御遺体を冷やし続けた20日間のあいだ、
不思議なことに、この泉の東の丘に、毎夜神光が輝いたといいます。

そこで、二条天皇の宣旨により、東の丘に崇徳院を祀る神社が造営され、御神光にちなみ明の宮(あかりのみや)と呼ばれるようになったのが、ここ白峰宮の由緒と伝えられています。

 

八十場の泉は、古くからの泉で、旱魃の時も水が枯れない泉であったといいます。

また、伝説もあり、景行天皇の時代、南海で暴れていた悪魚を退治に向かった讃留霊皇子(さるれおうじ)と勇者達の一行が、悪魚の毒に苦しんだとき、
この八十場の泉を飲むことで勇者達が蘇ったと伝えられます(その伝説から、「八十蘇場の清水」とも書かれるようです)。

八十場の泉からは今も滾々と清水が湧き出ています。

春になると、その清水で作ったところてんをお茶屋で頂けるとのことです。

さて、朝廷から讃岐に帰ってきた使いが賜った詔に則り、
崇徳院のご遺体は白峯寺に葬られることとなりました。

白峯寺

白峯寺は千手観音を本尊とする、四国八十八箇所霊場第八十一番札所にあたる真言宗寺院です。

先述の通り白峯寺は崇徳院が葬られた白峯陵が隣接し、この白峯陵は四国唯一の御陵となっています。

 

椀塚

崩御後、崇徳院が使用していた食器類を埋めた場所と伝えられています。

 

 

崇徳院に対する考え:「怨霊」以外の側面に光を当てたい

さて、以上のように、崇徳院に関する史跡を訪ねたり、また崇徳院に関心を持たれている方と交流したりすることで、

「崇徳院の「怨霊」として以外の側面に、もっとこれから光が当たるようになれば良いな」

と私は考えるようになりました。

すぐれた歌人として

崇徳院は天賦の誌才にめぐまれた歌人であると私は考えています。

崇徳院の歌は、優美でありながらも、格調高く、それは漢籍への素養の深さや、美しい言葉の選び方に裏打ちされたものではないかと考えます。

わたしのお気に入りの崇徳院の歌をひとつご紹介します。

 

「こひしなば鳥ともなりて君がすむ宿の梢にねぐらさだめむ」

「恋に焦がれた果てに死んでしまったのなら、私は鳥にでも生まれ変わり、あなたが住む家の梢をねぐらとしよう」

 

この歌は白居易「長恨歌」の次の詩を本説*としています。

在天願作比翼鳥 在地願為連理枝

(天に在りては 願はくは比翼の鳥と作り 地に在りては 願はくは連理の枝と為らん)

*本説: 和歌を作るときの典拠となる詩文の本文。

「鳥に生まれ変わって、あたが住む家の梢をねぐらとしよう」という優しい表現をする一方で、「長恨歌」での永遠の愛を誓い合ったを詩を本文とすることで、優美でありながら格調高く、切ない恋心を歌っている、素晴らしい歌であると思います。

詩才に恵まれた崇徳院は多くの和歌を詠まれたのは間違いないと思いますが、その割には生誕から900年が経過した現在でも、発見されている崇徳院の歌は少ないです。

また、歌は残っているものの、崇徳院の御製(歌)として特定できていないものが少なからずあるのではないかと思われます。

 

令和の時代に、すぐれた歌人としての崇徳院に光が当たり、院の歌がより多く見つかることを願っています。

 

いち人間として

不遇から世を恨んで死んでいったという、怨霊としてのイメージを崇徳院に持たれている方は多いと思います。

たしかに崇徳院は不運ではあったかもしれないですが、怨霊としてのみ崇徳院を捉えるのは、その不運のみに着目しているだけで、いち人間として崇徳院の生涯に対する視点を欠いている(忘れている)のではないかと私は考えています。

特に、配流された崇徳院が晩年を過ごされた坂出の地を訪れたことで、崇徳院は不運であるなりに、いち人間としてその人生を穏やかに、懸命に暮らしていたのではないかと私は考えるようになりました。

綾高遠は自らの邸宅を仮の御所として住まわれた崇徳院を気遣って、自らの娘である綾の局(あやのつぼね)に身の回りの世話をさせたと伝えられています。そして、崇徳院と綾の局の間には皇子と皇女が誕生しました。

このお話を知ることで、支えとなってくれる女性を慕い、子供を設けたという、いち男性として、いち父親としての人生も崇徳院は送ったということも忘れてはならないと考えるようになりました。

私が上記のツアーで坂出に訪れた時、坂出の方たちは、「崇徳さん」と、親しみを込めて崇徳院のことを呼んでいました。昔から地元の方たちは崇徳院のことをこう呼んでいるそうです。

思いがけない地で晩年を過ごしたものの、その地の人たち見守られ、慕われて生きた、華やかではないものの穏やかな暮らしがそこあったのではないかと私は考えています。

 

以上のように、怨霊だけでなく、「すぐれた歌人として」、また「いち人間として」の崇徳院に光が当たることを私は願っており、自分もそのための何か力になれればいいなと考えています。

 

拙いながらも、今回の投稿が、その小さな一歩となれば幸いです。

 

☑まなのおすすめ本

崇徳院(第75代崇徳天皇、讃岐院)が自ら詠まれた和歌、178首を収載しました。
この書籍の特徴は、従来の崇徳院御製集と異なり、詠まれた時期を特定または推定し、天皇期・上皇期・讃岐遠流期の3期の詠歌時期に分けて排列している点にあります。
崇徳院の御生誕900年を記念して、昭和以降、久々の崇徳院の御製集を誕生させました。

 

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