【神社参拝記】飛行神社に日本精神の可能性の極限を見た

2020年7月5日

二宮忠八の生涯についてお話しします。

 

 少年期 

慶応2年(1866年)、愛媛県八幡浜市の商人の家に生まれた忠八は、12歳のときに父を亡くし、貧しい家庭を助けるために薬屋などで働き始めました。そのかたわら、彼は物理学や化学に強い興味を抱き、専門書を読み耽り、ときには測量師の手伝いもしていました。そこで得た知見をもとに、彼は自ら凧を考案して作り売ることを始めました。彼の作る独創的で奇抜な凧は評判を呼び、「忠八凧」と呼ばれたそうです。

 

 青年期 

明治20年(1887年)、忠八は薬屋で働いていた経験を見込まれ、丸亀の歩兵隊付の看護卒として入隊します。

明治22年(1889年)、演習の休憩中、彼が昼食をとっていると、残飯を求めて飛ぶ鳥たちが谷を横切りました。彼はその時、羽をはばたかせずに滑空しているカラスの姿に興味を抱き、観察を始めます。このカラスの観察が彼の飛行原理の発見の足掛かりとなったのです

研究を重ね、忠八は明治24年(1891年)、ゴム動力を使った「カラス型飛行器」を作成し飛行に成功。

また、次は明治26年(1893年)に、人が乗ることのできる「玉虫型飛行器」を考案します。しかし制作実験に入ろうとする矢先、日清戦争が勃発。軍用機として自身の考案した飛行器が役に立つであろうと考えた忠八は、設計図を上申書に添え軍に研究開発を願い出ましたが、取り合ってもらえませんでした。

軍の援助が得られなった忠八は、自力で飛行器開発の資金を調達するため、大阪製薬株式会社に入社します。上質な薬を開発した彼の業績は目覚ましく、最終的に支社長にまで昇進しています。

 

 壮年期 

明治33年(1900年)、やっと資金的な目処が立ったため、飛行器開発のための土地を求めていた忠八は、生まれ故郷である八幡浜市と似た名前であることから京都の八幡に惹かれ、そこに工作所を建て移り住み、飛行器の開発に着手しました。

しかしその矢先、明治36年アメリカのライト兄弟が飛行に成功したという情報が彼の元に届きます。世界初の有人動力飛行という快挙を逃した忠八は大いに嘆き、彼は飛行器の開発を断念することにしたのです。

もし明治26年、日本軍が忠八の飛行器開発を援助していたら、ライト兄弟ではなく彼が「世界で初めて飛行機を作った人」になっていたかもしれないのです。

ようやく大正の時代になってから、忠八の研究は軍部より評価されるようになり、彼は多くの表彰や叙勲を受けることになったのです。

 

 老年期 

飛行機の時代が到来すると、航空産業の発展のかたわら、世界中で飛行機事故による犠牲者が多く見られるようになりました。それを知った忠八は、同じ大空を志した人間としてこれを見逃すことは出来ないと、その霊を慰めるために私財を投じて大正4年(1915年)に飛行神社を創建し、自身が神職となり、航空安全と航空事業の安全を祈願するようになったのです。

 

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